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万里の長城

 万里の長城は河北省の山海関から、甘粛省の嘉峪関まで至る、総延長6,352kmに及ぶ城壁の遺跡である。その大きさから「月から見える唯一の建造物」とも言われた。
 一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されているが、現存している「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。
 現在、中国の重要な歴史的文化財であり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。

八達嶺長城
 八達嶺長城とは、北京市街の北西部、北京市延慶区にある長城。世界遺産・万里の長城の訪問可能な地点のうち、もっとも早く観光地として一般公開された場所である。北京から交通が便利なため、年間を通じて多くの観光客が訪れる。この付近の長城は首都北京を防衛するために特に堅牢に作られていたため、万里の長城と言われて誰もが思い浮かべる、煉瓦で建築され所々に望楼がある姿は、北京近郊の長城に特有の姿と言える。入り口は北側と南側があるが、北側の長城のほうが標高高いため、観光客も多い。標高の最も高い「北八楼」は海抜1015メートルもある。また、観光用のロープウェイが両側の山の上まで設置されており、これを利用して山の上の入場口から観光する人も多い。

居庸関長城
 北京市内から北西へ約50キロのところに位置し、八達嶺へ行く途中にある。居庸関は、万里の長城に沿って造営された難攻不落の九塞のひとつである。国鉄京包線が通る居庸関駅もある。
 居庸関には「雲台」という旧跡、昔の仏塔の座が残っている。かつてチベット式の仏塔が建てられていたが、現在門だけ残っている。門の上部には、インドネシアの神鳥ガルーダと蛇身の女神ナーダのレリーフが彫りこまれ、アーチ内部には四天王のレリーフと6種類の文字で書かれた陀羅尼経文と造塔功徳記が彫刻されている。造塔功徳記とは、塔建設の由来を書いたもので、6種類の文字とは漢字、サンスクリット文字、ウイグル文字、パスパ文字、チベット文字、西夏文字のこと。

慕田峪長城
  北京市内の北郊外、73キロ離れた懐柔区の北20キロの軍都山の頂に位置し、全長2キロの長城である。標高千メートルの地点に関所があり、ふもとから千段の石段を登るか、ロープウェイを利用することもできる。勾配がゆるい場所に、射撃用の穴があり、22の望楼が50メートル間隔で作られている。八達嶺ほど雄大ではないが、周辺に樹木が生い茂り、灰色の城壁とのコントラストが美しく、まるで緑の海にくねくねと横たわる巨竜を思わせる。

黄崖関長城
  天津市薊県の北28キロ、崇山峻嶺に位置する。「険しい」ことで有名。北斉天保七年(557年)ここに関が設けられ、その後幾度かの修築を繰り返し、明代に大規模な工事が行われ現在の姿になった。
長城の壁は黄色く、夕日に照らされると金色に見える。北斉時代の烽火台や八卦迷宮など、展示も充実している。黄崖関長城の近くには、盤山、独楽寺など、数多くの観光スポットがある。

金山嶺長城
 北京から北東へ130キロ、河北省承徳市と北京市の境にある長城。明代に名将戚継光がモンゴル軍の侵入防止のために修築された。全長47.5キロのレンガ造りの長城は、標高千メートルの険しい峰に衝立を立てたようにどこまでも延びる。
 金山嶺長城は建造技術も素晴らしく堅牢に築き上げられた城壁や敵台などがよく残っている。
 ここから連なるのは長城の中で一番険しい司馬台長城である。その絶壁に立つ望京楼からはまさに60キロ先の北京が望めるという。

司馬台長城
 北京市内から北東に約120キロ離れた郊外に位置し、金山嶺長城や白龍潭風景区に隣接する。明代の原状を残している中国唯一の長城である。
 険しい岩壁の背を縫うように建てられており、堅固そのものである。全長は19キロで、絶壁を延々と曲がりくねり、東西に広がっている。城壁両側の上部の壁は防衛用の投石口、射撃用の窓、狙撃壁の向きもそれぞれ異なる。
 西の部分は蜿蜒秀麗、蛇が這うように美しい曲線を持つ、二十座の城楼を保存している。東の部分は愕険奇妙、驚くほど険しく素晴らしく妙である。剣先状の峰に十五座の城楼が聳え立っている。最も有名なのは第15楼「仙女楼」と第16楼の「望京楼」で、望京楼は最も高い場所にある。勾配が最も急なのは、第14楼の「天梯」で85度あると言われている。第18楼の「将軍楼」はすばらしい麒麟のレリーフがある。現在は第12楼までしか見学できない。長城の麓には司馬台ダムがあり、湖でボートや釣りも楽しめる。
 バスプールから仰ぎ見るだけで驚嘆するほどの迫力を持っている。人工の手があまり加わっていないのも魅力の一つである。通常、リフトで途中まで昇り、東部を自分の足で登る。

山海関長城(老龍頭)
 山海関とは中国万里の長城の東端にある要塞。
 河北省と遼寧省との境にあり、女真に対する国防の要衝とされた。山海関は東から数えて最初の関所であるため、「天下第一関」と呼ばれている。ここを越えて中原に向かうことを「入関して、関内に入る」と言い、東北地域を「関外」もしくは「関東」という。

虎山長城    
 虎山長城は、遼寧省丹東市内から南に20キロ離れたところにある。
 明代に造営され、明代の万里の長城の東端の起点であった。長城が建てられている寛甸県虎山郷虎山村、虎村の南麓の地名から、虎山長城と呼ばれている。現在約200メートル、見張り台3つ、北の方角には、6つの壁台が残っている。
 虎山の形はトラが横になっているようで、面積は4平方キロで、主峰は高さ146.3メートルある。南に鴨緑江を臨み、北朝鮮と赤島、義洲古城と面している。地形は険しく、堅固な防衛の要衝だった。

嘉峪関    
  「天下の雄関」と呼ばれる嘉峪関は万里の長城の最西端、甘粛省にあり、明代に馬勝によって北方からの異民族の侵入を防ぐ目的で作られた。
 明代はトルファンのウイグル族が侵入してきたので、ここに二重の城壁をつくり西端の砦とした。城壁は、高さ10メートル、厚さ8メートル。内城の東西に三層の望楼があり、内城の城壁に治って乗馬のまま駆け登れる馬道がついている。往時は、軍事基地として、200人~300人の兵士が常駐していた。

長城の「孟姜女伝説」
 新婚の夫がすぐに長城修築工事に懲発され、その後音沙汰がなくなる。新妻の孟姜は遠路をいとわず捜し求める。寒風吹きすさび、雨の降るなか、ようやく到着したものの愛する夫は既に死んでおり、その屍はすでに長城の土壁のなかに埋められていた。悲しみ嘆く妻は長城の下で慟哭した。すると天地は暗くなり長城は崩れた。長城の瓦礫の中からは人骨が現れた。妻は指を傷つけ“この血が骨に染み込めば夫の骨“と血を骨に落とすと、血は骨に染み込んだ。長城建設に庶民が沢山犠牲になった代表的な悲しい話である。

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