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胡同(フートン)

 胡同(フートン)とは昔ながらの北京特有のいわゆる横丁のことである。紫禁城の周囲には何千本もの胡同がある。大部分が元、明、清の三王朝を通じて形成された物で、その多くは故宮を挟んで左右の、東城区と西城区の二区に集中している。
 胡同を特徴づけるもののひとつに四合院がある。四合院とは、中庭を囲んで東西南北に四棟の家屋が配置される、中国北部特有の伝統的で閉鎖的な家屋建築様式である。かつての日本の城下町と同様、住人の地位や貴賎、貧富の差によって、豪邸からごく簡素なものまで、大小さまざまなものがあり、古き良き北京の面影を偲ばせる風景である。
 昔の高官や富商の四合院はしきたりに基づき、外院と内院に分かれている。一般庶民の小さな四合院は造りもごく簡単で、壁も低く門も狭い。胡同の両側にはこうした大小の四合院が軒を接して並んでいて、胡同はそれを結ぶ通り道なのだとも言える。採光のため、四合院は殆ど南向きである。四合院が並ぶ、胡同は殆ど東西に走る。北京旧城全体もあたかも四合院のように、町並みが画一化され、東西南北に規則正しく配置されて、周囲は高い塀で囲まれている。
 20世紀前の中国は工業化には至らず、その社会は遅れていた。人々の意識は未だ封建的社会の中に埋もれたままであり、取引や商売は下等な営みと考えられていた。北京旧城内では、皇族や貴族を始めとする人々が毎日四合院や胡同で優雅に遊んでばかりいた。四合院や胡同は往来の生活のありさまと社会文化の写しであった。
 清末期になると外来文化の影響を受け、胡同はその整然とした様式を徐々に失いつつあった。続く封建制の崩壊により、胡同は衰退の一途を辿ることになる。中華民国時代に入って打ち続く内戦や侵略の不安定な状況が、胡同の衰退にますます拍車をかけ、本来、ひと家族だけが住んでいた四合院も、複数の家族が雑居する「雑院」へと変わっていった。
 新中国建国後、胡同の街並は一時的には修復された。しかしその後の10年にわたる文化大革命によって胡同は再び人為的な破壊を蒙ることになる。
改革開放政策以降、近代化が進むなか、再開発と経済発展の波によって胡同は容赦なく取り壊されている。それでも北京市では面積としては1/10、人口としては1/7(200万)に近い人々が今なお胡同に住んでいる。その意味では胡同は昔も今も北京の人々の暮らしと深い関係を保ちつづけている。

什刹海
 什刹海、昔は「海子」とも呼ばれていた湖で、湖の広さは約34万㎡である。1999年に北京政府に「バーの街」に指定された。「伝統」と「ファッション」が完璧に融合して、現在北京の変遷の歴史がもっとも完璧な形で残されている地域であり、文化的内容のもっとも濃い地域でもある。

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