戦国時代の呉の王・闔閭の墓陵。葬って三日後に白い虎が現れたことから虎丘と呼ばれるようになった。
闔閭が死んだのは越王勾践との戦いに敗れ傷を負ったためであった。闔閭をこの地に葬ったのは息子の夫差。闔閭と夫差と勾践の物語が「臥薪嘗胆」の故事である。
闔閭は死に際し太子の夫差を呼び、「勾践がおまえの父親を殺したことを忘れるな」、という。夫差は、復讐を忘れぬために「薪の上に寝、部屋の入り口に人を立たせておいて出入りのたびに、「夫差よ、越人がおまえの父親を殺したことを忘れたのか」と叫ばせた。
越王勾践は、それを知ると、先手を打って呉を攻めた。夫差は精鋭を率いて越を迎え撃つ。越は敗れ、勾践は会稽山に包囲される。勾践は和を請い、勾践夫婦が夫差の奴婢となることを申し出る。
呉の重臣・呉子胥はこの機に越を滅ぼすことを主張するが、夫差は越に買収された宰相のとりなしに従い和議を容れる。
勾践は国に帰ると、熊の肝を離さず、座するときにも臥するときにも立つときにもこれをなめ、苦さの中で「おまえは会稽の恥を忘れたか」と自らに言い聞かせた。
これが「臥薪嘗胆」である。
結果は、それから二十年後、越王勾践は呉を破り、呉王夫差は自刃することになる。
さて、虎丘の上に塔が立つ。雲巌寺塔という。俗称虎丘塔。八角七層で高さは47メートル。宋代の961年に建てられた。四百年ほど前から地盤沈下のために傾いてきており、現在、15度ほど傾いている。